4/29 「完」
逃避行を始めてから一ヶ月が経った。
この歳になって、まさか女子高生よろしく記念日を意識するつもりはない。
乗る予定だったフェリーが高波の影響を受けて欠航続きになってしまっているので、足止めを食っている状態だ。
しかし、代案を考える気にもならず──単にめんどくさい。だから、ぼーっと海を眺めて過ごすだけの日々を送っている。
まあ、考えごとをするには悪くない。
現実から、社会から、人間から、人生から、過去から、それらすべてから逃げるための逃避行。けれど考えてみると、ただ死に場所を求めていただけかも知れないと思ったりもした──うん。まあ言ってみただけだ。
明日で四月も終わるので、一旦日記をつけるのをやめようと思う。日記を遺していると、偽りの安心感、充実感、そんなくだらない錯覚に浸っている気がする。
もうとっくの昔に詰んでいるのに。今更、生温い安心に縋ってどうしようというのだ。
まあそれでも、まだ意味もなくだらだらと生き続けて、もし気が向くようなことがあったら──そのときは続きを語ろう。
4/27 「松島」
松島に来た。
日本三景の一つ。言わずと知れた観光地──松島である。
松島と聞くと、真っ先に「松島やああ松島や松島や」の句を思い浮かべる人が大半ではないだろうか。僕もその一人だ。
これを詠んだのは松尾芭蕉ではなくて、田原坊だという説が濃厚らしい。まあそんなのはどうでもいい。
芭蕉であれ、田原坊であれ、いずれせよ僕はこの句が好きではない。というか嫌いだ。
なぜなら、これこそまさに「何を言ったかではなく誰が言ったか」という言葉を体現するものだと思うからだ。
何を言ったかより、誰が言ったかの方が圧倒的に重要視される。
そりゃそうだろう。
東大生の語る勉強法、五流大学生の語る勉強法──たとえ後者の内容の方が優れていたとしても、それを評価する者はいない。
「松島やああ松島や松島や」というこの句も、一流の俳人が詠んだからこそ後世に語り継がれているわけで、もしもこれを詠んだのが名のない俳人だったなら、一笑に付されてそれで終りだったはずなのだ。
言葉は平等だと信じたいが、そんなことは決してない。言った人間の価値が、その言葉の価値となる。
名を馳せた偉人、芸能人、メダリスト。彼らが口にした言葉は、彼らが言ったというだけで価値を持つ。
一流の言葉として扱われる。
だから僕が何を言っても、僕の言葉に価値はないし。他人の心に響くことはない。
どこまでも、どこまでいっても戯言だ。
だとしたら──そんなのはあんまりじゃないか。
画像、松島より
4/26 「萬葉堂書店」
早朝に金蛇水神社へ、日中は萬葉堂書店に、夕刻には瑞鳳殿へと足を運んだ。
なかでも萬葉堂書店は、なにがなんでも行きたいと思っていた古書店。
それはもう期待以上だった。まさにユートピア。
地階の棚に並んだ古書の数々は本当に素晴らしくて──英知の女神メスティオノーラはここにいるのではないかとさえ思ったほどだ。
僕は旅先で郷土誌を探すことを楽しみとしている。
というのも、いつでもネットで各地の名産品、伝統工芸品などを取り寄せられる今の時代。郷土誌だけが唯一、自分で足を運ばなくては得ることのできない戦利品ではないかと、そう考えているからだ。
郷土誌といってもジャンルは様々だけれど。民俗学や民話、伝承について書かれた本を好んでいる。
地域に伝わる逸話を集める心境としては。
日本人は期間限定とか地域限定とか、限定商品に弱い生き物らしいので、日本人の遺伝子を持つ者として、僕もその類に漏れることなく、地域限定の逸話に心を惹かれるのだと思う、多分。
棚に並んでいる郷土誌は、宮城県のものだけにとどまらず、ほかの東北各県の本も大量に並んでいた。
古書は値が張るので──ボロボロの手帳サイズの本が2000円とかしたりする。
だから大量買いとはいかないけれど。それでも東北六県それぞれの伝承が載っている本を一冊ずつ、目についた民俗学の本を二冊。計八冊を購入した。
まだまだ読めていない本が、車に大量に積んであるのに、これ以上増やしてどうするのかという気もするけれど。
それでもよい買い物ができて楽しい時間だった。
4/25 「宮城」
まだまだゆっくりしていてもよかったけれど、毎日同じ場所で読書をするというのも面白みに欠けるので、昨日から宮城へと向かった。
福島はいいところだった。
いわきマリンタワー、猪苗代湖天鏡閣、鶴ヶ城、武家屋敷、さざえ堂等々。
なかでも一番印象深いのは「あぶくま洞」だろうか。天然の鍾乳洞。あれだけの広さの空間が自然に誕生したというのには、年月の重みというか、神秘というか、感じ入るものがあった。
宮城県に入ってすぐのところ、七ヶ宿という地域──しちかしゅく、と読むらしい。初見じゃまず読めない。
七ヶ宿湖。その湖畔にある「道の駅 七ヶ宿」に車を停めた。駐車場に芝生の公園が隣接されていて、そのまま湖に出ることができる。
読書には最適な環境。
しかし、こんな湖畔の、それも山間部の道の駅だ。少し考えれば事前にわかりそうなものだったが、夜間の気温が低すぎた。
最低0℃って。軽く死んでしまうところだったじゃないか。もう五月になるというのに。
まあこれは単純にリサーチ不足というか、行き当たりばったりの行動をしている僕の落ち度ではあるけれど。
七ケ宿湖のすぐ近く、材木岩公園(ざいもくいわこうえん)というスポットがあったので、今日はそこに行ってみた。
川を挟んで向こう側、材木岩と呼ばれる切り立った崖──実に圧巻だ。
ちょうど季節のイベントで大量の鯉のぼりが川に渡してあるのも相まって、これまでの路程の中で一番の眺めだったように思う。
近くを通りかかるまでは材木岩の存在すら知らず、ただなんとなく寄ってみただけだったので、本当に得をした気分、望外の喜びだった。
今回の道程に限った話ではないけれど。有名な観光地──要するにGoogleマップの評価で☆4.0。レビュー、数千件みたいな場所にいくとき。こちらの期待値が高いせいなのか、実際に目にしてもあまり感動できず「ああこんなものか」と思ってしまったりする。
そしてその逆に、偶然見つけた場所で想像以上の景色に出会えるということは、ことのほか多いように思う。
画像は材木岩公園より
4/24 「占い」
少し前の日記で、占いについて話をした。そのときは、やや否定的な意見を述べてしまったが、占いの本質を誤解していたのかもしれない。
というのも、占いにおいて大切なのは、当たるか当たらないかというより、占いを信じることで生じる偽薬としての効果──プラシーボ効果にあるのではないかと、そう思い至ったからだ。
プラシーボ効果──効能のない薬でも使用者が効果があると思い込んで服用することで、症状が改善したりすること。
占いは多分それに近い。
「占いで成功すると言われたから
、きっとうまくいくはず」と思うことで、それが自信となって地力以上の力を発揮することができるようになるはずだ。その結果目的達成に繋がることもあるだろう。
当たるから信じる。当たらないから信じない。そこしか目を向けずに、占いを評価していたけれど、それは早計だったかもしれない。
画像は花園神社より
4/21
ファストフード店やネットカフェを探すまでもなかった。どうやら福島は風の強い地域のようで、車の窓を五センチほど空けておけば車内を一日中適温に保つことができた。
さて、ここのところ何かに追い立てられるかのように観光をしていた。
スライドショーの移り変わる風景をただ眺めるかのような、脳死の観光だった。
この旅──逃避行に出発した直後、名所をまわることを目的にしてはならないと、そう言っていたはずなのに、どうやらそれを見失っていたようだ。
本来、目的なんてものはなくて、ただ人生とか社会とか現実とか、そういったものから逃げ出したかっただけのはずなのに。
いつからか、旅の意味を見出だすことに必死になってしまっていたらしい。
これからしばらくは、この福島の──知らない土地の、知らない図書館にでも日参させてもらい、のんびり過ごそうと思う。
旅の記録はお休みだ。
しかし、自分で言うのもなんだが。
僕は人見知りで引っ込み思案のおしゃべりという心底残念な性格をしているので、紀行の代わりに思い付いた雑談を綴らせてもらうことにする。
くだらない戯れ言ばかりになってしまうけれど──どうかお付き合いいただけたら嬉しく思う。